どうも。ここ最近、気温が下がり段々寒なってきましたね。
さて、ここまで久留米市のイベント情報記事を書いてきましたが、記事を書いていてふと久留米市のことを知っているようで知らないことがわりと多いなぁと感じました。
そこでイベント情報以外に久留米市内の町にフォーカスをあてて知っているようで知らなかった歴史・文化のことも記事にしていこうと思います。
「そんなこと知ってるよ!」っという内容もあるかと思いますが、私が疑問に思ったことを記事にして、より多くの方に久留米市のことを知ってもらえたらいいなぁ〜っと思います。
久留米市城島町は、なぜ鬼瓦のモニュメントがたくさんあるのだろう?
久留米市城島町に行ったことがある方は見たことがあると思いますが、写真のように大きな鬼瓦のモニュメントを各所で見かけると思います。
城島町には、城島瓦を使った32騎の鬼面があるそうです。
「すごい鬼瓦だ!なぜ城島町に鬼瓦のモニュメントがこんなにあるの?」とふと疑問に思ったんですよ〜。
そこで少し調べてみました。
城島瓦(粘土瓦)の由来
城島町は筑後川の営みにより、粘土瓦に適する多量の粘土層を有していたことです。
粘土瓦は約400年前、関ヶ原の戦後、丹波福知山藩主、のち筑後久留米藩主の有馬公が瓦工を伴い城島で製造を始めたことが城島瓦の起こりとされています。
文献に「関が原の戦後、丹波の国より有馬公が瓦工を伴いて、筑後に封ぜられてより瓦業興る」と語り伝えられています。
瓦葺きの家は城や武家屋敷以外の使用は禁止され、少禄武士のみが製造販売の許可を得て、粘土採取は耕地を低減するという理由で先祖から営業している者だけに許可され、新たな許可はされませんでした。
その後、廃藩以来、筑後川の支流による水運の便利により瓦製造業に従事する職人さんが増加し城島瓦が盛んになりました。
城島瓦は、何百年もの風雨に耐える耐久性といぶし銀に光る優美さが特徴で県知事指定特産品となっています。
現在は、約10軒の瓦製造所があり、屋根瓦の建築用以外にも、インテリア工芸品として花器やランプシェードなどの製造も行われています。
この他、草野や矢作の伝統的町並みの修復にも使われています。
ところで鬼瓦(鬼面)は何の意味があってできたか知ってる?
鬼瓦(鬼面)は和式建築物の棟(大棟、隅棟、降り棟など)の端などに設置される板状の瓦の総称。略して「鬼」とも呼ばれ「魔除け」「厄除け」として盛んに製造されたとされています。
ルーツは中国から見られ、日本では唐文化を積極的に取り入れだした奈良時代に始まり、急速に全国に普及したとされています。鬼瓦を作る職人は、鬼師と呼ばれるそうです。
わたしの一言
需要が減っているとはいえ、こういった素晴らしい職人さんの技術・伝統が継承されていってほしいですね。
今後、こういった疑問からも久留米市の情報を記事にしていきたいと思います。
こちらの記事も合わせてどうぞ!